Licca doll with Kumamon in Kumamoto.
帰省したら,必ず父の散歩につきあうことにしている。
父の散歩コースはいつも同じだが,緑がいっぱいで水辺も多く景色が美しい。
阿蘇の覆水が湧き出る江津湖。
幼い頃は,ここで魚や海老を捕ったり泳いだり,蛍狩りをしたりしていた場所だ。
今も水鳥が集う自然豊かな場所で,散歩するには良いところだと思う。
水神さまが祀られた展望スペースにて。
すぐ横で熊本大学ボート部がよく練習をしている。
父の散歩コースに,熊本の歴史を感じさせられる建物がひっそりと建っていた。
太平洋戦争の最中,戦火を逃れて愛知県から熊本県へ場所を移した,
三菱重工業(株)熊本航空機製作所の工員宿舎の最後のひと棟だ。
熊本地震でも倒壊することなく,今年の4月,既に無人ではあったが残っていた。
撮影は,2018年4月13日・15日。
このあたりは熊本市の中でも震源地の益城町に近い場所。
私の実家は半壊だったし,近所でも立て変わった家が続出だった。
よく残ったものだと思う。きっとしっかり建てられた家だったのだろう。
82歳になる父によると,この家は家族がいる工員用の社宅。
「水菱園」という名前で,当時は周囲にずらっとたくさん同じ家が建っていたらしい。
少し離れた場所には独身社向けの,これより小さな工員宿舎が並ぶ場所もあったという。
この地区の小学校(健軍小学校)には愛知県から多数の転校生があり,
愛知県出身の子たちは良い教育環境で育っていて優秀で成績が良かったのに対し,
地元の子供たちはそうではなかったので劣等感を持つ子が多かったとのこと。
阿蘇を望む熊本市の東部には,三菱重工の名残が今もたくさん残っている。
戦争の記憶を持つ人も少なくなった今,
それらは熊本市の風景にすっかり馴染んで誰も注意を払ったりしない。
けれど,水前寺が終点だった熊本市電が東の健軍終点まで延びたのは三菱重工のためだったし,
私が子供の頃に社会見学で見に行った井関農機や中央紡績などの工場は,
三菱重工の跡地を利用して建っていた。現在の陸上自衛隊健軍駐屯地もそうだ。
三菱重工の試験飛行場は,熊本空港が現在の位置に移転する1971年まで,
熊本飛行場として使用されていた。私は古い飛行場をよく覚えている。
そして,今年の4月に父と散歩しながら撮ったこれら写真が,水菱園の最後の写真となった。
2018年10月27日,水菱園の最後の1棟は取り壊され空き地になっていたのだった。
時代は巡り街は変わってゆくけれど,
歴史の記憶は街の中に溶け込んで,意識せぬままに受け継がれてゆくものなのだろうと思う。
三菱重工が残した熊本と愛知の絆を,熊本でたまに見つけることがある。
父との散歩で水菱園の最後の姿を記録できたことは本当に良かった。
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