カプセルドール CAPSULE DOLL Black
黒い人たち。
このくまモンは山鹿(熊本県北部)の道の駅で見付けて,母が気に入って買ってきた物らしい。
木でできているので,前衛的なこけしの一種と考えても良いのだろうか?
熊本へ帰省するときいつも感じる。
飛行機が九州山地を越えて阿蘇の山々が見えると,自分が熊本モードに切り替わるのを。
熊本にいる私は,東京にいる私とは少し別人だと思う。
感じ方も考え方も熊本の全てに引っ張られて変わってしまう。
いつもの自分を思い出せなくなる。
そして帰りも同じだ。
羽田に到着し,出口に向かって歩いていると熊本モードが徐々に解けていく。
ゲートを出て京急の駅へ向かうエスカレーターを下りる頃には,
完全に東京の私になっている。
いつもエスカレーターの上で「東京ただいま,東京の私ただいま」って思う。
この現象は,別に土地に限ったことではない。
一緒にいる相手によって自分の人格が少しずつ変化するのを感じる。
要するに,確固たる「私」なんて存在しないのではないか?と疑う。
「私」は場所や人などの環境によって発現した成分で,連続的に作り変えられる。
発現するための基になる「私」はあるが,それは曖昧で変化しやすい原材料。
そのくせ何か間違うと意固地になってしまう。
大した「私」がないのなら,我など捨て波風立たぬよう人に合わせればよいのに?
刻一刻と環境によって変化し続ける自分という曖昧な存在を認識すると,
宮沢賢治の『春と修羅』の序章にとても深く共感を覚える。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
(心象スケツチ 春と修羅 宮沢賢治)

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